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津軽塗は、青森県弘前市を中心に津軽地方で作られてきた我が国最北端の伝統漆器で、唐塗、ななこ塗、紋紗塗、錦塗に代表される「研ぎ出し変わり塗り」が特徴です。下地を含め約50にも及ぶ工程を経て作り出されることから「津軽馬鹿塗り」とも言われ、堅牢さと優美さを兼ね備えた実用性の高い漆器として有名です。 |
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川連漆器の特徴は、地塗りと呼ばれる柿渋と生漆を直接塗っては研ぎ、研いでは塗りの工程を繰り返す技法から始まります。仕上がりに向けた下地作りで製品の持つ堅牢さの秘訣です。さらに中塗りの工程を経て、本塗りを行います。本塗りには「花塗り」をもって完成です。花塗りは「塗り立て」ともいい、刷毛のあとを出さず漆を均等の厚さに塗る熟練した技術を必要とする方法です。川連漆器は、古くから暮らしに密着した生活用品として愛用されています。 |
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鳴子町は宮城県の北西部に位置するいで湯の里、北に栗駒山を望み、南は蔵王連峰へと連なる奥羽山脈に抱かれた東北有数の観光地です。漆器は温泉の湯治客のみやげもとのして作られた、江戸初期寛永年間(1624~43)が始まりと伝えられています。
※木地呂塗:木地呂塗はケヤキ材を使い漆だけを数回塗り重ねて仕上げます。漆の特徴で黒くなりますが、年月を経るごとに、ケヤキの木目が美しく現れてきます。
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会津の地に本格的に漆工芸が根付いたのは、1590年、豊臣秀吉の命を受けて会津の領主となった蒲生氏郷公が産業として奨励したことによります。氏郷公は前の領地であった日野(滋賀県)から木地師や塗師を呼び寄せて先端技術を伝承させました。これによって会津塗の技術は飛躍的に進歩を遂げ、一大産地となりました。幕末の戊辰戦争において会津漆器は壊滅的な打撃を受けてしまいましたが、明治の中期には、日本有数の漆器産地としてその名を再び轟かせるに至っています。400年という時を超えて生き抜いた伝統の技の上に、常に最新技術を積極的に取り入れ会津漆器は現在まで成長を続けています。 |
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東京も昔から今に伝わる漆器産地であるというと意外に思われる方も多いと思いますが、東京都の「伝統工芸」の指定を受け、その一翼を担う歴史のある立派な漆器の産地なのです。四百年前、江戸城築城に伴い、建築或いは家具、食器等の江戸城や譜大名、寺社の需要に応える為に城内に設けられた御細工場を中心に、京都、駿府等から多くの漆工が集まり、更に江戸市民の為の漆器も作るようになって、その伝統を今も「江戸漆器」が伝えています。又、新しい素材にも積極的に取り組んでいます。 |
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木曽漆器は徳川幕府によって整備された五街道のひとつ「中山道」を行き交う人々により、木曽ひのきを始めとする木曽五木等の良材を用いた庶民の漆器として育まれ、産地が形成されました。当産地は、平成17年には全国の産地にあって唯一「漆工町・木曾平沢」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。製品も日用漆器から業界物まで多岐にわたり、近年は、産地の卓越した技術を活かし、文化財等の修復、復元にも積極的に取り組んでいます。 |
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村上は古い城下町です。今から600年前頃に京都から寺院建築に来た漆工が始めたと伝えられています。そのすべてが伝統の技法で作られ、使い込むほどに鮮やかな朱色を見せ、落ち着いたツヤも出てきます。漆の持つ塗りの肌の柔らかさは日本古来の優しさ、温かみを感じ、末永く使える丈夫さが自慢です。天然木、本漆塗りで「手の技、手の誇り」を信条とし、新製品の開発にも取り組み、後継者育成にも力を入れています。
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『町人文化が築いたものづくりの心』
高岡漆器は慶長14年(1609)二代目加賀藩主前田利長公が高岡城築城のため武具や箪笥、膳など日常生活用品を作らせたのが始まりです。その後、中国から堆朱、堆黒などの技法が伝えられ、彫刻塗、錆絵、螺鈿など、多彩な技術が生み出されました。これらの技は高岡の祭礼に曳き回される絢爛豪華な御車山に集結されるなど、町人文化の中にしっかりと根付き発展してきました。他産地に類を見ない多彩な技法は昭和50年、国の伝統工芸品の指定を受けています。
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輪島塗の特色は堅牢な下地塗りにあります。「輪島地の粉」という珪藻土の焼成粉末を漆に混ぜて塗る「本堅地」の技法は、物理的にも科学的にも安定した丈夫な漆下地となることが確かめられています。また、蒔絵や沈金の加飾の技術も優れており、日展や日本伝統工芸展等の中央展常連作家は100余名を数えます。現在輪島塗は、全国漆器産地の中でただ一つ、重要無形文化財の指定を受け、漆工技術の継承・発展に努力を重ねています。
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山中漆器のはじまりは、安土桃山時代の天正年間(1573~1592)。諸国山林の伐採の許可書を持つ木地師(きじし)が越前(福井県東北部)の山間部より石川県山中温泉の上流20kmにある真砂地区に移住し、「轆轤挽き物(ろくろひきもの)」の技術が伝わったのが起源です。その後、真砂地区から山中へ移って温泉客を相手に木地挽きを生業とした木地師たちのより、山中漆器発展の基礎が築かれました。現在では江戸期に導入された「塗り」や「蒔絵」の技術により茶道具を中心とした塗り物の産地としても有名です。江戸末期に木地師により考案された「加飾挽き」や「薄挽き」等、高度な木地「轆轤挽き物」技術は、山中漆器の大きな特徴であり、全国一の木地轆轤挽き物産地としての山中を支えています。また昭和に入ってからは合成樹脂を素材とした安価で丈夫な近代漆器を導入。新しいライフスタイルに対応した食器開発で、伝統漆器と併せて生産額日本一の漆器産地として発展しています。
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金沢漆器は、寛永年間(1630年頃)美術工芸の振興に力を注いだ3代加賀藩主・前田利常が、京都から東山・桃山文化を代表する蒔絵の巨匠・五十嵐道甫を招いたことに始まります。道甫は、細工所の指導者として王朝文化を持ちこみ、以後、優美華麗な貴族文化に力強い武家文化が加わった独特の漆工芸として発展していきました。高度な技術による品格ある一品製作を特徴とする金沢漆器は現在も高級美術品として多くの人々から愛用されています。
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1500年の歴史を持つ越前漆器。木地作りから漆塗り、加飾作業まで一貫した生産が可能な漆器産地です。挽物はトチノキ、ミヅメ、ケヤキ等の木を縦方向に立木挽きします。塗りは花塗(はなぬり)という、刷毛の跡やほこりが付かないように仕上げの漆を塗り、そのまま乾燥させる技法が特徴です。堅牢な下地作りに塗り重ねた艶と、優雅な作りには定評があります。別名、河和田塗としても知られています。
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紀州漆器は和歌山県海南市の北西部「黒江地区」を中心に生産されています。その歴史は室町時代に紀州木地師によって渋地椀が作られたのが始まりだといわれています。黒漆で下塗りをし、その上に朱塗をした「根来塗」や江戸後期に隆盛を誇った「折敷」等シンプルだけれども実用的な塗りは現代も「盆」等様々な製品に姿をかえて作り続けられています。
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香川漆器の起源は、藩政時代、藩主の保護と理解のもとに発展し、幾多の名工、巨匠を輩出してきました。そして昭和24年には商工省から重要漆工集団地として指定され、また昭和51年2月には「蒟醤」「存清」「彫漆」「後藤塗」「象谷塗」の5つの技法が、四国では初めて国の伝統的工芸品に指定を受けている。香川漆器の始祖である玉楮象谷が中国伝来の漆塗技法を研究し、我が国古来の手法を加味して漆芸の新しい分野を開拓し、今日の香川漆器の基礎を築きました。その後も多くの先達の手により漆芸技法も多岐にわたり受け継がれ、製品も盆、茶托、座卓などその種類の豊富さは、全国の漆器産地の中でも一番多く、香川漆器の特徴のひとつでもあります。
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宮崎漆器は、太平洋戦争末期に沖縄から疎開移住してきた漆職人らによって始められ、琉球漆器の流れを汲んでいます。特に朱塗の色の冴えが特色で、ハイビスカス、ハマユウなどの南国的絵柄が描かれたものが多いのも特徴です。
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